DOCTOR
院長紹介
院長挨拶
小学生のころ
学校の先生に怒られない日はほとんどないくらいいたずらっ子でした。学校帰りに蛙を釣ってあそんだり、ヘビの尻尾を持って振り回したりしてまっすぐ帰ることも少なかったです。そんなヘビを振り回している息子をみて、母は倒れそうだったそうです。
野球が大好きでよく兄や近所の子と野球をしていました。仕事で忙しくいつも「勉強したのか?、勉強しろ!」と口癖のようにいっていた厳格な父がとても怖いと感じていましたが、たまにキャッチボールをしてくれとてもうれしかったのを覚えています。
中学生のころ
バレーボール部に所属するも岐阜から福岡に父の仕事の都合により転校、新しいところに馴染めずバレーをやめてしまいました。引っ越したばかりで転校生といじめられたりしていましたが、いじめられるタイプではないので喧嘩ばかりして同級生などやっつけていました。
高校生のころ
高校は福岡大学付属大濠高校(男子校)で質実剛健の高校により鍛えられ女の子と仲良くしゃべるのを恥ずかしいと思っていた硬派な学生でした。約8キロの距離20分(平均時速24キロ!)で自転車通学をしていたたので足腰は強くなり、いまだに自転車に乗るとすごいスピードで走れます。
浪人生のころ
大学受験では将来の行きたい方向が定まらず、大学受験に失敗。親の管理から離れたくなりパチンコやマージャンを頻繁に行い駄目駄目浪人時代を送っていました。
1回目の大学のころ
1浪後とりあえず受けた工学部機械工学科に入学するも、入りたい大学でもない、行きたい方向も定まらないまま大学生活をおくり、遊びにバイトに明け暮れ、まじめに大学の勉強はするわけもありませんでした。就職活動では10社以上落ちましたがようやく内定をもらったが、喜ぶどころか、将来への不安だけ大きくなっていきました。
歯科大に入る前のころ
そんな時福岡歯科大学の生化学教授である父に「このままでいいのか?歯科大に編入する気はないか?」と助け舟をだしてくれたのです。しかし父の思いやりも聞く耳ももたず、その年は就職もせず、歯科大に行くこともありませんでした。このままでは・・・と思う気持ちが心のどこかにあった私は父の研究の手伝いをすることにしました。1年後もう一度父に歯科大への編入を勧められました。1年間真剣に研究に打ち込む父の姿を見てもう一度自分を振り返ると、自分は何かを一生懸命にやりきったことはあるのだろうか?このままではやはりいけない!と思い編入することを決めました。
歯科大のころ
歯科大に編入してからは親の顔に泥を塗ってはいけない思いと、駄目な人生に終止符を打つように授業は一番前でノートを取り、授業を休むことなく勉学に勤しみました。1回目の大学の友人にその話をしても「うそや~大学ちゃんと行ってるなんて~」と信じてもらえないほどでした。一生懸命勉強したおかげでテストでは毎回学年で10番以内、国家試験の前日は飲みに行くほどの余裕でした。
1回目の大学とは比べ物にならないくらい充実していたのは、勉強だけでなく1度あきらめてしまったバレーボールにもう一度打ち込んだことです。みんなで一生懸命デンタルでの優勝(歯科大では1年に一度全国の歯科大学でのスポーツ大会があります)をめざし先輩後輩と練習したりコミュニケーションをとったりしたことはとても大きな財産になりました。
勤務医から現在まで
卒業すると福岡から離れ兄が東京で開業していた歯科に就職するもその当時は折りがあわずすぐ退職、大手歯科の赤羽歯科に就職しました。歯科医師の大きな基盤となる赤羽歯科でたくさんのドクターやスタッフと出会い、毎日仲間と食事に行ったり、遊んだりしていました。その後開業をすることを決め、もう一度新たな気持ちで兄の開業する歯科医院で開業を意識したレクチャーを受けることになりました。ここでは開業の重さ、苦労や努力を学び改めて兄の存在の大きさを感じました。自分で開業後はさらに院長として兄と良く相談しあったり、励ましあったり、お互いによい刺激を受けながらともに成長していく存在になりました。